江巖寺の由来と伊達家との関係

政宗、13歳で祝言

1578(天正6)年、福島県三春城主田村大膳太夫清顕の使者が米沢城を訪れ、清顕の一人娘愛姫(めごひめ)を伊達政宗にもらってくれという。当時の田村家は近隣を強豪に囲まれた小国であったため、伊達家と結んでその安泰を図ったのであった。父君輝宗公大いに喜び、これを諸臣に問う。 皆曰く「田村氏隣境と協調せず、今これと婚せば、恐らくは怨を隣境に結ばんと」又母の義姫も反対した。政宗の嫁は最上(山形城主)大崎(注1)、葛西(注2)など北方の名家からもらいたいと考えたのである。しかし、将来伊達家が奥州を制覇するためには、会津の芦名、常陸の佐竹という強豪と決戦をしなければならず、そのとき三春城は根城として必要との輝宗公の一言によって婚約は成立した。公曰く清顕列強の間に立ち未だ一敗せず、其武、称するに足る、宜しく我児の婦翁と為すべしと、議遂に決す、伊達成実等行きて之を迎える。婚成り諸臣萬歳を唱う」という。翌年11月、13歳の政宗と11歳の愛姫は米沢城で祝言を挙げた。

愛姫の父の病死

1586(天正14)年、愛姫の父清顕が病死した。田村家には後継ぎの男子がいなかったので、清顕の夫人が当主代行となった。夫人は相馬家から嫁いだので、田村家中の相馬派が勢力をのばし、伊達家は悔しがった。政宗と愛姫の次男か三男を田村家の嗣子にするという結婚の時の約束があったので、伊達家はひたすら愛姫の懐妊出産を待ち望んだ。しかし、田村家の家臣石川弾正が謀叛するに及んで、政宗は相馬派を一掃するため、愛姫の母を三春城から追い出した。愛姫は政宗の仕打ちを怨み、側室との関係もあって夫婦仲は悪化した。1590(天正18)年、小田原へ参陣する政宗は生きて帰れぬと思い、愛姫に11年間心配かけたことを詫びた。愛姫も、ついに世継ぎを産むことができなかったことを詫び、殿に万一のことあれば私も自害するといい、このとき2人はかたい夫婦愛に結ばれたという。

愛姫の懐妊

愛姫が初めて懐妊し出産したのは、1594(文禄3)年京都において、後に松平忠輝夫人となった五郎八(いろは)姫である、(政宗 の長女五郎八姫は、家康の6男・松平忠輝との結婚で、徳川政権初期における、海外への夢と信仰の間で、歴史の波間に消えていった夫婦の悲劇を物語ることになったのである。)その4年後に大阪で2代藩主となる忠宗を産み、次男宗綱が生まれたのは、この4年後である。「愛姫は、後太閤秀吉の要求に依り、伏見に住むに及び、夫人常に伏見に在り、此時藩祖大崎の叛民を征す、人あり、太閤に讒(ざん・悪くいうこと)するに藩祖の叛を以ってせしかば人危疑安んぜず、夫人書を藩祖に送りて曰く、方今天下分崩未だ定まる所を知らず、公宜しく公義に遵いて去就を決すべし、幸に妾を以て念と為す勿れ、妾は匕首常に懐に在り、一朝変あらば辱を他人に受けじと、藩祖嘆じて曰く、誠に坂将軍の裔なりと」、一六〇九(慶長十四)年江巖寺建立の因縁となる三男竹松丸が誕生した。この年には、政宗が再興中の松島瑞巖寺が落成した。

竹松丸君の夭折

この時政宗43歳、晩年に近づいていた政宗は、落ち着いた人情味を持ち、子供を思う気持ちが一段と強くなっていた。
7歳といえば可愛い盛りである。そういう時に竹松丸君は夭折した。1615(元和元年)年3月18日のことである。江巖寺開山鱗庵光 金大和尚(輪王寺十世)の導師にて慇勤に葬儀を営み「江巖寺殿惠春大禅定門」と法諡(おくりな)したが、政宗その死をいたく悲しんで

いとけなき 人は見果し ゆめかとよ うつつに残る 老の身のうき


と詠じ、竹松丸の菩提を弔うため一寺を創建して、微笑山江巖寺と号した。

不動明王を江巖寺に安置

母の愛姫は、容姿婉麗挙止閑雅にして淑徳ありと言われ、酉年生まれであった。酉年生まれの守り本尊はお不動様であり、田村家より伊達家に嫁する時、持仏として不動明王を持参、日夜信仰していたと言う。その大聖不動明王を竹松丸菩提のため、本尊として江巖寺に安置した。大聖不動明王は矜羯羅(こんがら)、制叱迦(せいたか)の脇佛二童子とともに寄進されたのである。(背割不動尊といわれる秘佛)この因縁を以っての故に当江巖寺は、ご正室愛姫の子竹松丸君の菩提寺として、開基(注3・寺院を寄進建立した人)は伊達家であり、 愛姫「陽徳院殿栄菴寿昌尼大姉」となったのである。

それ以後、愛姫と竹松丸の菩提を供養し、お位牌を守り続けて388年(平成15年の時点で)の歴史を刻み続けて来たのである。愛姫は佛を信じ、藩祖捐館の後落髪して尼となり、瑞巌寺住持雲居禅師(注4)につき禅門の玄旨を問う、雲居住生 要歌108首を著して之を献ず、忠宗公一寺を瑞巌寺傍に創建し、以て母夫人の修道場となす、是を陽徳院という、夫人詩藻を善くし、又筆札に巧みなり、日光山に上れる歌、最も人口に膾炙された。(むこよいしふたつのたつの古へを聞こそ渡れ山の菅はし)承應2年正月24日江戸邸に没す、享年86歳、松島陽徳院の背に葬り、廟を建てて寶華殿という。その当時、江巖寺の殿堂は本堂間口12間半、奥行8間、庫裡は間口6間半、奥行15間、山門、鐘楼は総欅材で仙台城本丸建築時の残材を使用したもので頗る宏壮を極め附属舎屋も整備してあり、9石2斗8升の寺領を附し着座格に例した。藩政時代は輪王寺門主としてその寺務に干与した。

そして現在へ

しかし、歳月を経るに従い自然朽廃し、明治維新後はその修理方法を欠くに到った。明治9年第21世魯山和尚の代に旧建物を撤廃して仮堂を建て、明治36年25世嘉全和尚の代には荘厳仏具等を整備したが、昭和20年7月の戦災で堂宇付属物、什物等一切を烏有に帰し、仮堂を以って僅かに日々の勤行を続け再建の計画を進めてきた。その後、兼務住職となれる本多喜全和尚が再建を発願するも事至らずして遷化した。更に26世大内素俊和尚の代になって自宅を解体移築して、現在の庫裡となしたころから戦後復興の第一歩が始まったのである。それから本堂、位牌堂と建立し現在に至っている。

まさに江巖寺の歴史も例外ではなく、栄枯盛衰は世のならいに従ってさまざまな変遷を経てきた訳である。
創建当時は檀家もなく伊達家の庇護の下に竹松丸君菩提供養の為に発願建立された寺であった。現在は檀信徒の数も日増しに増加の一途をたどり往時の江巖寺に一歩も二歩も近づくことを念願とし、竹松丸君菩提供養発願の理念に鑑み、又江巖寺檀信徒ご先祖様ご供養と檀信徒守護帰依の寺として、檀信徒皆様と、明日の江巖寺を創っているのである。


注1
1339年、足利氏の一族斯波家兼が、奥州・羽州の探題として古川市や加美郡中田町において軍事、民政を執行した。その子直持のとき、弟兼頼を出羽国最上郡山形に入れ羽州探題とし、以後直持は大崎氏、兼頼は最上氏を名乗った。
 このとき十三代義隆が大崎家の当主であり、領地は現在のほぼ志田・加美・遠田・玉造・栗原の五郡であった。
注2
1189年、源頼朝の平泉合戦に従軍した側近の葛西清重は抜群の戦功をあげ「奥州総奉行職」に抜擢された。
そして現在のほぼ岩手県・気仙・胆沢・磐井・江刺・宮城県の本吉・登米・牡鹿七郡を与えられ、石巻日和山に居城を置いたという。
このときの当主は十七代晴信であった。
注3
基礎をきづくということで、寺院の創立者をいう。
創建した人は伊達家であり、愛姫であったので今日のように檀家は皆無であったため寺領を附され、伊達家の庇護を受けていた。
注4
諱は希膺、把不住軒と號す、俗姓は小浜氏、土佐畑郷に生る、幼くして京都に上り、大徳寺賢国良について僧となり妙心寺に入る。
塙田右衛門直之と親交あり、元和の役、将軍家康に所見を述べる。後、諸国に行脚し、福井県小浜に一寺を開く、雲居偈に曰く、「三毒生時双 眼暗。萬縁脱處一身安。衲僧行李只如是。傘下杖頭天地寛。」と、これより伊豫松山に遊ぶ、攝津勝尾山にありしとき、後水尾天皇召して法を問う、天皇これを嘉賞し再び召し給うも固辞して出でず、忠宗公強いて招聘すれどもまた出でず、忠宗公再三強請して松島瑞巖寺に迎える。
法徳一時に高く、瑞巖寺中興第一世となる。正保三年再び京都妙心寺に住し、次いで松島に帰り、洞雲大梅寺の佛刹を開創し、萬治二年八月八日端然として寂す、世寿八十八歳、敕諡を賜て慈光不昧禅師といい、又追號を大慈圓満国師と言う。
伊達家関係家系図
伊達家関係家系図

参考資料(伊達家治家記録・奥羽婦人伝・東藩史稿・仙台人名辞典)