微笑山主述

江巖寺会報に掲載した前住職の文章を紹介します。

ゆとりある時間を

4月25日午前9時18分ごろ兵庫県尼崎市の(JR福知山線尼崎-宝塚間)塚口-尼崎間のカーブで上り快速電車7両の先頭5両が脱線。1、2両がマンションに激突し、107人が死亡、549人が重軽傷を負いました。事故に遭われた方のご冥福と早いご回復を祈るばかりです。戦後の列車事故史上4番目の犠牲者に、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会で事故原因解明中といいます。

過日、東京駅で「連結の東海道新幹線が10分ほど遅れています。少々お待ちください」という放送がありました。でも、仙台には定刻に到着しました。時間通り発着する日本の交通機関は世界に冠たるものらしいです。

思えば、インドで列車・飛行機・バスを利用しましたが、時間があってないようなゆったりしたものでした。時間を仏法では、人間のエゴが過去への思い出と執着、未来への予測や期待が過去未来を作り時間を作るといってます。起信論に「能く現在の巳経の事を忽念として念じ未来の事を不覚に妄慮せしむ」とあります。過去・現在・未来の三世という相続が意識の上で成立することを相続識と言っています。しかし、過去は過ぎ去り未来はいまだ来たらず、あるのは現在だけです。「あと何時間で仕事が終わり何分で食事になる」と、待つことから時間の観念が生まれるのです。

もう一度生活を見直し、ゆとりある時間を持ちたいものです。

平成17年8月

平常心是道

今年は猛暑最中に、新潟や福井等の各地で集中豪雨があり被害甚大です。江巖寺でも火災受信機基盤が破壊されました。隣への落雷が地下のアースを通ってきたそうです。

思えば、台風や洪水、大地震に津波、火山の噴火や落雷等、これら人間にとって不都合なことが、宇宙・大自然の活動にとっては本来当たり前の絶対的な事実であります。

私たちの日常生活も自我意識の働きによる喜怒哀楽が、人生の全てであるかのように錯覚することがないでしょうか。例えば、倒産する間際の人たちは大変です。人生の一大事であり、死ぬか生きるかどうしようかと夜も眠れなくなる日が続くほど悩んでしまいます。しかし、時がくると体の方が疲れてしまい、やっぱり寝てしまいます。

つまり、尽十方界真実人体(大自然)である私たちの体そのものは、私たちの意思・意欲の如何にかかわらず、本来の生命活動を休みなく続けていてくれます。だからこそ私たちは生きていけるのです。人間の喜怒哀楽は人間生命その時々の表情であり景色です。その証拠に悲しみや、どんな大きな喜びも結して何時までも長続きはせず、時間の経過とともに平常底に戻らざるをえないのです。身体の生命活動においては人間の利害思わくは無関係です。

人間はこの平常底の中で生かされ、生きています。平常底の真実は余りにも当たり前であり、特別な感覚を引き起こしませんし、体験や経験できるものではないのです。いつも何となく無事であり、常に活動・変化し続ける宇宙の真実には、全く無関心であることを平常心というのです。平常心が道というのは、尽十万界が真実故に、平常心是道と言います。人間が考える価値や人間の欲望を満足する医師意欲の追求に価値をおくのではなく、平常底である尽十方界の在り方に無限の価値を見いだすことが仏道の極意です。「馬祖道一・709~788」(最初にこの言葉を作ったといわれている)

平成16年8月

大宇宙の生命を生きて

愛別離苦といって愛している人との別離は大変苦しいものです。特に、人間の死はどうしようもない悲しい現実であります。「私はもう長くないいつ死ぬかわからん」といってはいますが本心はそうではない。死とは、思い通りにならない生き返す訳にはいかない絶対的様相であります。

思えば、私たちの顔もこういう顔になろうと一生懸命努力したものではありません。顔も身体も授かりものであります。呼吸も、自分の思い通りにはなりません。意識したら眠れません。新緑や四季おりなす木の葉の色彩と空の青も自然の様相です。今年は梅雨が長く雨ばかり、理由はありません。気象科学ではいろんなふうに言いますけれど、科学の物差しでは届きません。

私たちは生まれて生きて、そして死んでいきます。200歳も300歳までも生きられません。6年前に寺族が逝って、二ヶ月半入院した母が7月に逝去しました。それぞれの生命を生きて死んでいくから天寿といっています。規格がないから死も様々、それぞれが掛け替えのない生と死であります。生也全機現・死也全機現(せいもぜったいなり・しもぜったいなり)です。全機とは宇宙の様相のことです。故に、生も佛の姿、死も佛の姿であります。これを道元禅師は

生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとへば冬と春のごとし。
冬の春となるとおもはず、春の夏といわぬなり
(正法眼蔵第一・現成公案)

と、絶対的事実として示しております。

平成15年8月

米中枢同時多発テロに思う

昨年九月、アメリカの貿易センタービル爆破を発端とした一連の事件は、イスラムの正義かアメリカの正義かという戦いであるといえます。南北格差が広がり、グローバル化が進む中、一方で正しいことが一方では間違いであり、一方で邪として片づけられたものが他方では正と信ぜられている場合もあります。

この地球上では嫌いなものと嫌いなものが共に平気で生活しているのです。好きだとか嫌いだとかは個人だけの問題です。地球の地面は 「俺はヘビは嫌いだからどこかへ行け、カエルは好きだからカエルだけ集まってこい」などとは言いません。いろんなもの、違ったもの同志が集まって存在しているのが当然なのです。それが地球であり世界です。

人間は自分で正しいと納得が出来て信じ得たことが「正」であり、それに反するものを「邪」としてしまってはいないでしょうか。自分の家の正義は隣の家の正義とは限りません。国も人も同じです。本人はほとんど気づかずにいますけれども、人間がものを考える時、その深層には必ずその時のエゴがあります。まことに利己的で勝手主義であります。人は神の正義を自分の持ち物にしてしまいます。

どんなに正しいと信ぜられている考え方であっても、それが人によって考えられた正である以上、「絶対的」に正しいということはありません。好きだとか嫌いだとか、エリートが良いなどといったことは人間の自我、我が儘で言っていることなのです。私たちが絶対だと考えている存在でさえも、遥かな昔から雄大にそびえ立つどんな大木でさえも、どれ一つ勝手に存在しているものはありません。真実世界には自我は通用しません。「泥多ければ佛大なり」とは自己のエゴの深さに気づくことであります。

平成14年8月

縁を豊かに

大阪教育大付属池田小学校で児童が殺傷された事件は、開かれた学校が重要なキーワードになってきた現在、犯罪防止の在り方について全国の学校現場にも衝撃を広げています。

二十世紀は、都市型社会の中でコミュニティーが崩壊して縁が薄くなり、住みにくい社会を形成してきた感があります。現在、住み良い社会とはどういう社会なのだろうかと皆が気づき始めたのではないでしょうか。

私達の住む家の縁側も多くのご縁を持つために縁側と名付けました。縁とは縁起という事です。この言葉は「縁起でもない」「縁起がいい」などと言って物事の吉凶を表す時使われていますが、文字通りに読むと、ものごとは縁(よ)りかかって成り立ち、ものがここにあるのはそれ自身の力であるのではなく、いろいろの条件が相乗し、複合し、融合してあるという意味です。つまり、その辺にある青草も、石ころも、すべてが自分で選んで生まれたものではなく、この世のありとあらゆるものが全て縁起の理法で大自然をしていると言ってよいでしょう。従って、「有ることが難しい」という認識が「有り難い」という感謝の念を生むように「勿体」という認識が「勿体ない」という畏敬の念を生じるのです。いずれの言葉も、縁起、無自性という仏教の基本的な世界観の土壌から芽生え出ているのです。

子どもにとって地域が心底安心できるスペースとなり社会で育まれ生きられるために、自ずと私達の地域も縁を大切にコミュニティー豊かな住みよい地域社会として再機能していくことが求められているのではないでしょうか。

平成13年8月

縁起の働き

かつてガガーリンは「地球は碧(あお)かった」と言ったといいます。宇宙から見えた地球はどこまでも平穏無事であったのです。しかし、そこに住む人間世界ではどうでしょう、しょっちゅう争いが絶えません。

人間には大体1キログラムで1兆個の細胞があるといわれます。従って、60キログラムの人は60兆の細胞があることになります。

地球人口の一万倍の細胞が毎日ケンカもせずに生きているというのは現代の科学から見て奇跡的だといえます。地球の人口60億の人間だってしょっちゅう戦争だ裁判だと、ケンカしたり、いがみあったりしているのに、人体の細胞は自分も生きながら臓器を生かし個体を生かしています。それは遺伝子の働きだといいます。「働き」とは「人を動かし」かつ「人のために動くこと」で、まわり(はた)を(楽)にするということではないでしょうか。

佛教の基本は縁起です。縁起というと吉凶の前触れで「縁起が悪い」、「縁起が良い」と言われたりしますが、本来は因と縁と相応じて萬法が起こることを言うのであります。

さまざまな存在の条件が縁(よ)り集まって網目のように相乗、複合し、そして融合作用して、すべてのものは生じ、存在し、変化し、衰え、そして滅し、これが限りなく繰り返され続けていく働きであるから、私の思い通りにはならないのが真実であります。「人の心元より善悪なし。善悪は縁にしたがっておこる」と。

平成12年8月

「こころ」について

いま、心の教育が問われ、心身の健康とか心身円満とか身体と心を心身といっています。
一般の国語辞典でも、心身と心を裂きに書いております。仏典では身体は五蘊によって成り立つという釈尊の教えに基づいて必ず身心となっています。

つまり、心が先ではなく身が先になっています。身心一如ですからどちらが後先とは言えませんが身があっての心なのです。般若心経でご存知の方もあろうかと思いますが、(五蘊(ごうん)という心の世界を引き起こす5つの集まりである)順序からいうと色(もの、ものごと、物質的要素肉体、あるいは身)と・受(感受)・想(知覚)・行(好悪・損得の判断)・識(自分意識)」の感覚作用「心」となっていますので身心ということになります。

従って、こころは一つの塊ではないので、形を持っているものでもありません。道元禅師は「人の心、元より善悪なし。善悪は縁にしたがっておこる」といっておりますので、性善説・性悪説ではありません。
 こころというものは総合的な条件が関係しあったときに生起する自分の意見や行動を考える働きなので縁起といっております。

心より心を得ると心得て 心に迷ふ心なりけり (一遍上人)

平成11年8月

身調えば心も調う

不登校・いじめ死・神戸連続児童殺傷などの青少年による事件が社会問題になっています。

文部大臣の諮問機関、「中央教育審議会」は「心の教育」特に、「命の尊さを考える教育・幼児期からの心の在り方」を検討した結果、子供の教育には学校だけでなく、家庭と地域も一体となって取り組まなければならないとの提言もなされた。また、キレル原因の一つに食生活があるとされ、今、具体的に「こころを育む学校給食週間」をおこなうよう都道府県教育委員会に通知し、異例の「家族一緒の食事の大切さ」を訴えたといいます。加えて「心というあいまいな対象に一般論が処方せんとなるのかあらためて論議を呼びそうだ」との新聞記事がありました。

仏法でも一番大切な言葉に「心」という語があります。心とは私達の心臓でも、精神でも、霊魂でも魂でもありません。仏法での心は「一心一切法・一切法一心」です。一切ですから、これ以外に出るものはまったくないということです。従って、心というのは部分的なものではありません。この世の中のありとあらゆるものが心ということです。身心一如ですから体全体が心ということです。故に身体の威儀を調えることは、心を調えることになるのです。

平成10年8月

少欲知足

「佛垂般涅槃略説教誡経(ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう)」・遺教経中に、足ることを知る-足りることを知る"知足"という言葉があります。

私達に食欲というものがなかったら何も食べられず、人間やりきれません。味覚というものが与えられていますからどんな物でも美味しく戴けます。懸命に頭で考えたことではなくとも腹が減ったら自然に食堂へ足が向きます。これは大変な恵なのです。人間はこの恵みを頂きながら、それに乗っかって暴走してしまう。この暴走段階から自我が出てくる。好きな物ならどれだけ食べて飲んでもいいというように思って我儘の限りをつくす。厳粛な真実はそれを許さない。身体が不調となる。そのことをよく自覚しなければ自己破滅になる。それを自我という。

私達はそれほどまでに恵まれている。従って、全てのものを考えるということにも限度がある。私達はその辺によく思いを致し、本来の姿を忘れずに節度のある"知足"を考えたいものである。

平成9年8月

人間の思考活動

全ての生物は体外からエネルギー資源を取り入れなければ生命活動は出来ません。植物は根と葉によって自然に取り入れていますが、動物では空腹を感じて食物を探し動き回る生活活動があります。

動物園の園長さんが、「ライオンは空腹になって得物をあさる時には独特の猛獣振りをするが、狩りが終わって、獲物を家族全員一緒に食事をする。その時に食べ残りの獲物を他の小動物がきてすっかり食べてしまう。寝そべっているライオン達は、それを目を細めて見ていて何の手出しもしない。また満腹して家族全員が寝そべって居眠りをしている前を彼等がいつも獲物にしている動物の一群が、彼等のすぐ面前を通過しても、彼等はそれに一向無関心であるという」こんな話しを聞きました。この話は動物の脳というものは、身体を維持するためのみに働いて、それ以上の働き、思考活動はしないということをよく示しています。人間ではどうでしょう。人間性の実態では色々の思考が働いて絶対に見過ごさず、徹底的に残さないで狩りをするでしょう。つまり思考活動が人間の生命活動であります。

従って人間は、原爆まで作りました。思考活動の盛んの日常生活の表現がエゴです。思想も理想も自己満足のエゴイズムの追究で形成したので、考えは人によって違いますから利害対立があります。

故に、自己満足の異常な状態の宗教の世界や、民族問題と、環境問題、人権問題も、自分好みの満足感追究の異常な人間性を越えて、正常に徹して生きる平常心是道、即ち自然に生かされている正常な生命を全うすることから見つめて行くことこそが大事ではないでしょうか。

平成8年8月

解脱ということ

人間は、これこそが正しいと思いこんでいるときは、自分で自分を縛って満足感を得ようと偏執狂になってしまうことがある。神の教えに反するといって自分の子供に輸血を拒否したというのもあり、現在のオウムのハルマゲドンもしかり、あれも自分で自分を縛っている典型的な偏執狂の表現でしょう。大体がそのように働いてしまう人間の頭の中身とは一体なんでしょうか?

それはものを考えるという脳だけの働きで、いつの間にか全体で全てだと思ってしまう。つまり、脳が働いている事によって所謂人生が現れるものです。従って、人生が私達の全てではありません。それは、身体の生命活動の一状況だったのです。「これがおれの思想だ!」といってこの俺が自分の全て自我だと思い込んでいますが、本当の主人公は身体全体であります。つまりお互いの身体そのものが大自然の真実だったのです。人間の世界では自我を主張し、それが全てとなっていますが、自我は昼間だけで寝ているときは自我は休んでいます。

所謂、昼間の目が覚めていて、意識がはっきりしている時でも人生活動が必ずある訳ではありません。つまりこの現実は尽大地、即ち大自然であり、これが真実している、従って真実の実態を仏道用語の言葉として解脱と表現したのでした。

平成7年8月

偉大なこと

各地で日本一と称する大仏が出現している。仙台の中山にも100mの大観音が出来た。横浜のランドマークタワーは76階276mもある。奈良の大仏、超高層ビルを見上げしばしその大きさ、量に圧倒されてしまう。しかし、計り知れない大空に圧倒される人はいない。そして何んともかんとも思わず毎日その下で、その下にいることも意識せず暮らしている。私達は滅多にないこと巨大なことには激しい反応を示す習性がある。又この反応が却って、法悦と受け取られていることなどがよくある。しかし私達は本当に偉大な真実には決して動じようとはしないのである。

日常生活の中でも、苦境を救われたりいろいろ恩義を受けたりすると感謝感激しても苦楽や、得意失墜の現実には、絶対に感謝の心も感激の念も起さない。実はこの何の感謝感激の念も起こらない凸凹の激しい現実こそ仏の姿であった。我々にとって最も大切なことは何か。それは、真の神秘、神聖、偉大な、有難いということは、茶を喫し飯に逢う、感激することのないなんとも思ったことのない日常生活であります。

平成4年8月

自燈明・法燈明

釈尊がクシナガラの郊外、シャーラ樹の林の中で最期の教えを説かれた。「弟子達よ、自らを燈明(ともしび)とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。」我々は如何なる場合でも自己の身体、尽十方界の真実には殆ど思い当たることはない。自己の生存に対しては不安感も、存在感も持ちようがなく生存させられている事実を絶対に信じている。又信じていることさえ感じたことはないのである。

普通一般的な信は必ず不信ということが付随している。このような信は不信の表明であるとさえ言ってよいであろう。絶対信ともいうべき、我々のこの「本来のあり方」即ちこの尽十方界真実である身体の事実のあり方が絶対信である。この絶対信が実修実証(只管打坐)されていくところに本心(身)の自燈明(真実人体)法燈明(大宇宙の真実)そのものが展開されていくのである。

平成3年8月