護持会会報 江巖 第26号より

畑中盛雄について-国文学研究資料館教授・松野陽一

江巖寺に埋葬されている文学者の一人に畑中盛雄という人がいます。盛雄は江戸中期の漢学者として名があり、その故に大正三年に仙台を訪れた森鴎外は江巖寺の墓域に参じています。しかし、彼の遺した数多くの著作の全体を検討し生涯を観察してみますと、漢学よりもむしろ国文学に関して、今日なお一流と評価できる仕事を残していることに気づきます。最近、彼の仕事の全体像をまとめる機会に恵まれましたので、その人となりと業績のあらましを素描してみましょう。

盛雄(もりかつ)は通稱多沖又は太沖、荷沢と号しました。畑中氏は、伊達藩の家格としては大番士(平士)で嘉禄は二百五十石でしたから中級の武家であったといってよいでしょう。父の名は健得(通稱十大夫、淡也)、母は不詳。享保十九年(1734)に生まれ、寛政九年(1797)十一月二十日に六十四歳で没しました。

畑中荷沢先生の墓父・健得は家臣としての主務ではほとんど事跡を残していませんが、側近の小姓組で五代藩主吉村、六代宗村二代の寵を得て文事の才で活躍しました。四代藩主綱村の和歌を集成したり、『新類題集』という歌集を編纂したり、源氏物語を書写したりといった公務を果たしたほか、連化に長じて業績をあげました。伊達家では特に連歌を重視し、毎年正月七日の七種(ななくさ)連歌会ではお抱えの連歌師の猪苗代・石井両家を京都から迎えて恒例の催しをしましたが、宝暦三年(1753)の会は両家の都合がつかなかったため、変わって宗匠役を勤め名をあげました。

盛雄はこの父の五十歳の時の子で、父の文学の才と実力の最も充実した時期の薫育を受け、藩主宗村の厚い庇護の下に成長しています。江巖寺に在る奥田直輔撰文による「荷沢先生墓碣」の碑文によりますと、初冠前の十三歳の時、数人の漢学者が藩命で行っていた『墳史』という書物の校訂作業に加えられ、藩の書物の秘庫の利用を許されていたといいます。また、藩内の上流諸家で催す詩歌会に招請されて麒麟兒と呼ばれたそうです。右の校訂作業は漢学の素養が必要ですから、漢学和学共に優れた少年だったのでしょう。寛延二年(1749)十六歳の時に藩主の命で猪苗代兼恵に入門し連歌を学び始めます。寛延四年には父と「初学千句」の連歌を巻き、宗村からの下命で父が始めていた釈教歌の部類を助けています。釈教歌とは仏教の経旨を内容とする和歌で、その整理の仕事です。これがやがて盛雄晩年の大作『類題法文和歌集注解』に発展していったのです。つまり、十代の修学期は、実に環境に恵まれていたといえましょう。

ところが、二、三十代の彼はどうも順境にあったようには見えません。恐らく宝暦三年(1753)二十歳の時に宗村が亡くなり、その庇護を失ったことに不遇の原因があったと思われます。

彼は漢学は別所穀城、芦東山に学びました。穀城は古文辞学派の荻生徂徠の弟子、東山は元は伊達藩の藩儒でしたが藩校講席のことで有司と争い、享保二十年に幽閉処分となり、宝暦十一年まで二十六年間も許されませんでした。どちらも藩を代表する政党的な朱子学者ではなかったのでしょう。そして東山の娘(女流詩人として知られていた才媛)と盛雄は結婚し、長子君英(青霞)が明和元年(1764)に生まれています。俗界の出世に関わらない知的情熱の人盛雄の人生態度をここに見ることができます。

折しもこの頃、林子平の父林笠翁がひそかに仙台に流亡してきており、その著述活動を援けています。笠翁は世を忍ぶ仮名で、元は幕臣岡村良通。小納戸組に属する微禄の身でしたが、著作もあり、博識で知られた人物でした。真相が隠滅されてよくわからないのですが、同僚とのことで傷害事件を起こした後、江戸を逐電、最初の数年は信夫・伊達地方、後には利根川下流域の下総・常陸地方を十数年にわたって流亡の生活を送りました。どうやら相手が将軍吉宗の寵臣で正当な裁きを期待できなかったからの逃亡のようです。単なる犯罪者ならば意味はありませんが、大変な学者で、下総時代には佐原の揖取魚彦に影響を与え、魚彦はそのために却って笠翁が批判の対象にしていた賀茂真淵の門に走ってその高弟になってしまうという面白いエピソードがありますが、不安なおわれる日々の中で学問を忘れぬ人でした。それが偶然、娘が伊達家の江戸藩邸に奉公し、宗村の側室になるに及んで、姉弟の嘉善、子平も伊達家臣として仙台に移住することになり、それを頼って笠翁も仙台に来たというわけです。

笠翁は明和四年に没するまで青天白日の身にはなりませんでしたが、多くの著述をし、それを盛雄が助けたというわけです。笠翁の歌集の撰も盛雄がしています。六十八歳で臣だ笠翁がその随筆にまだ三十代の盛雄を評して「仙台ニテノ親友ナリ。文章詩歌ヲ能ス。博ク和漢ノ書ニ達セリ。儒官ナラザレバナリ。」といっています。儒学で禄を食む官僚でないからちゃんとした学問を身につけているのだというのです。こうした当時の反社会的な立場の人たちを親しい姿勢をとったのも不遇の身を肯定的に見ようとする心情の現れだったのでしょう。その笠翁、父健得、岳父東山、そして妻の全てを盛雄は三十代の前半に死別します。

四十代に入ると再び陽の当たる場に出ます。安永六年(1777)四十四歳で小姓組に登用され藩主重村に近侍して江戸に出府します。江戸で諸藩々邸の詩歌会に出席し、細井平州ら漢学者と交流し、畑中荷沢先生の墓誌また君命で堂上公家に入門して和歌を学んだ事は、漢学・和学の両面にわたって幅を拡げ、奥行きを作りました。五十代半ばにかけて著述活動も活発でした。面白いのは和歌は保守的な伝統尊重の立場なのに、漢詩は盛唐詩を理想とする新風に立っていることです。

しかし、何といっても盛雄の実力の発揮されたのは、寛政二年(1790)五十七歳で隠居した後に藩主重村のために執筆した国文学の注釈作業の大作でした。

平安時代から鎌倉時代にかけて和歌を公平な立場から集めた勅撰和歌集が二十一作られましたが、その第一番目の古今和歌集から十番目の続後撰和歌集までを対象にした『十代集釈義』、その表現を整理した『十代要句部類』、源氏物語の表現の注『源氏彙事』『源氏彙言』、前者は一万首を越える和歌、後者はご存じの長編物語ですから扱うだけでも大変ですが、これがなかなかの代物。そして畢生の大作、釈教歌の注釈『類題法文和歌集注解』が著述されています。盛雄は僧侶ではなく儒者ですので仏典を一から読解して、集成した経旨和歌の基本的理解を提示しています。現在の国文学界では釈教歌の研究がやや遅れていますので、専門の僧侶の注(法華経中心で体系的なものがありません)よりも盛雄の体系的で明晰な注解が注目され始めています。最近、駒沢大学蔵の伊達家旧蔵本が活字化されましたので、利用度は飛躍的に増加することでしょう。伊達藩外では一部の指揮者にだけ知られていた盛雄の学問の世界が学界全体のものとなる時代がようやく到来しています。それもひとり釈教歌解釈にとどまらず、和漢兼学の盛雄の学芸の総体が評価される日も遠くないことでしょう。

江巖寺の畑中盛雄墓碑は永らく不明となっていたようですが、現御住職の御努力で一族の墓石と共に整備されて参詣できるようになっています。「滄海院百川道朝居士 心鏡明園信女」と妻と併記の品のいい墓碑で、詩才豊かな知識人夫妻にふさわしいたたずまいです。奥田直輔の顕彰碑と共に、ご参詣の居り、目を留めてくださいますよう。

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